焼き物、陶芸というのを偶然の産み出す芸術という言い方があるけれど、
焼いたあとにどうなるかを計算して作る逆算して準備する創作であって、決して行き当たりばったりの偶然ではない気がするのです。
釉薬の融点が色によってちがうこと、混ざったらどうなるか一度試した事を覚えていて次に試すくりかえしで作っているのです。
電気の窯の加熱時間はコンピューター制御ですので、お料理のなまやけも無ければ、焦げもないのですが。土の厚みが部分的に違って差がありすぎたりしますと乾燥したところと湿ったところの差が引っ張られて割れたりひきつったり。土がばらけたり、よく絞めないとそこから変形したり。完全に乾き切っていないうちに焼いたりすると、水蒸気爆発したりもします。
土をこねて焼くなんて太古の昔から人類の祖先もやってきた、脈々と繰り返してきたこと、土とか鉱物とか金属が地球の地中からやってくる事を実感できる身近なクラフトが陶芸で、それを通して土偶も愛おしく思えてくるし土を焼いて器をつくるなんて昔と今とまったく同じじゃないか。
と、そんな鉱物って材料が地球にあったのだっていうこと、何気なく使っている金属も鉱物からつくっているんだなっていうこと。とっても身近なところでは、血液のヘモグロビンも鉄がないとだめだっていうこと。
お正月恒例の大学の箱根駅伝のはなしをしていたら、長距離を走るためのスタミナ持続に鉄分の注射なんていうのがあるとかで、成績至上主義っていうのか、ドーピングにならないのかっていうのも、鉄分のおはなし。金属はからだにないとだめだけれど、多すぎても内蔵によろしくない、かえってあとあとぼろぼろになってしまうんだそう。
コンゴのタンタルが紛争を呼び込むのも、ゴールドが紛争を呼び込むのもダイヤモンドも地球から採ってくるものからできているし。
陶芸って何なんだろう。文化って何なんだろう?価値の高い作品って何なんだろう?欲しがられるものってなぜみんなが欲しがるのだろう?物欲、手に入れたい欲、経済と作品は関係あるのかどうか。そこにはあやつる人もいますし、あやつられてしまう立場の人もいますし。プラチナに価値があると思わされているけれど、プラチナは実は宝飾より自動車の排ガス用の触媒という工業用の金属です。ジュエリー業界のコマーシャルはプラチナといえばゴールドの上のようなイメージを植え付けますし誰もがそう信じます。
あやつられるのは日本の消費者だけではありません。
DRコンゴの難民もルワンダで別の意味であやつられています。難民の中に子どもは子ども兵士としてリクルートされるだけではありません。コルタンの採掘場の40メートルの穴の中で有毒の水に浸かりながら、素手または素足で洗いだす作業に従事させられていたりします。細い穴の中は子どもひとりが入れるほどの狭いところなので子どもが労働を強いられています。
資料*「あやつられる難民」政府、国連、NGOのはざまで 第3章p.166 米川正子
PKO,国連は、どこに介入すべきかをどうやって選ぶのかについて、
武力行使自体を悪とする政府と、人権の追求を善とし、人権侵害が生じた場合には武力を選ぶ政府とがあるって。自国の若い兵士の大事な命を危険にさらすだけの価値とは。国連が介入して救い出そうとしている命よりもわたしたちの命の方が大事と考えていると人権のための戦争の矛盾。地球上のどこに関心を示すべきかの判断と国益。資料*:なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか p,479